「スキャンダル」というバンドが歌っている曲の中に「交わした筈のない約束が、今日も、僕らの未来を奪おうとする」という歌詞がありましたが、私たちも同じように、知らないうちに自分たちの未来を奪われていってしまっているのに、ほとんどの人がそのことに気づいていない。
これが、今回の「玻」をめぐる申し立てで感じたことでした。
何でそんな話になるのかって?
私たちが募集したアンケートは、アンケートの回答そのものよりも、それに付随する(もしくは、回答そっちのけで寄せられる)自由な意見にこそ価値があったと感じています。
意見は、とても感情豊かなものが多く寄せられました。
以前、このブログでも、自由記載の大まかなジャンル分けを載せたと思いますが、一例を挙げるとこんな感じです。
「おはようございます。はじめまして、中日新聞を読みましてメールさせていただきました。
「玻」についてですが、正直な話、字の意味がわかりませんでした。
名前に使って良い文字かについてですが、私自身の意見としては全然問題ないと思います。
なぜ名古屋市は受理しないのか?見当もつきません。日本国の勝手な法律により名前がつけられないのは
日本国の政治と同様で身勝手でわがままそのものだと思いました。
私も近々子供が生まれるため名前思案中で、子供には良い名前をプレゼントしたい気持ちはよくわかります。
日本国家に負けないでください。諦めて妥協など絶対しないでください。
陰ながら応援してます。頑張って!」といった心温まるものから
「親のエゴ丸出しで子供に戸籍を与えないとかどうかしてます。使っていい文字か調べず、受理されなかったから逆ギレですか?どの親もきちんと調べて、その中から命名してるんですよ!『プレゼントをあげられない』のではなく、あなた達が他人のせいにして与えようとしてないだけじゃないですか。はっきり言って自己中もいいとこです。仮に認められたとしても、関わるとめんどくさい親のレッテル貼られて、子供に被害があるかもしれませんよ。わたしだったらあなた達みたいな人と関わりたくないですもの。
世の中にはルールがあるんです。それに子供はペットじゃないんですから!親の所有物でもないし、一人の人間ですよ!自分達のわがままを通そうとする前に、子の将来を考えてください。同じ親として本当に恥ずかしい。
現在のルール上使えない文字なのだから『使えない』に決まってます。また受理されなくて当たり前。お子さんが無戸籍状態にあるのは、役所が悪いんじゃない。ご両親に責任があると思います。」と言ったものまで、種々様々でした。
この意見の表面にとらわれて、この意見の方々を批判したりしないでくださいね。賛成も反対も、私たちの事件を、自分のこととして真剣に捉えて下さったからこその、「愛と関心」の表れだと、私たちは今も感謝しているんです。
たとえ、私たちに厳しい意見だったとしても、「愛」です。正確には「愛の裏返し」です。愛の反対は「無関心」であることを思えば、「怒り」や「叱責」が深い愛の裏側であることは容易に理解できるでしょう。世界中が無関心に満ちている時代に寄せられたこれらすべての意見に、私たちがどれだけ深く感謝しているか。だから、どんな意見も批判しないで、その愛と関心に敬意を持ってくださいね。
話を元に戻すと、いただいたご意見を読んだ感想は、冒頭の様に「『無知は自由を奪』い、無知ゆえに『交わした筈のない約束(法律)』に、『僕らの未来を奪』わせている」ということでした。
まだ分かりにくいですよね。
● 「自ずと社会にはルールがあり、そのルールの中で適応していくべきだと考えます。今回のことは社会的なルールを無視した極めて勝手でエゴな振る舞いだと思います。抗告など「もってのほか」なことです。
名前の由来がどうであれ、日本人であれば日本の今のルールで使用出来る範囲で選ぶべきです。ルールが社会や環境に適応していないと考えるのであれば改正、改訂、変更すべく働きかけるべきでしょう。法律が今の社会に合ってないからと言って、勝手な解釈の基でその法を犯すような事が許されますか?あなたの主張はそのような事だと思います。
いつまでもお子さんの戸籍が無い状態で、親のエゴの犠牲になって
いるお子さんが気の毒です。」という意見に代表されるような良識ある意見も多数お寄せいただきました。
いずれの意見も、戸籍法をご存じないようでした。
重複になりますが、そもそも戸籍法に定める常用平易の雛形になるのは「常用漢字」と「別表2の漢字」です。
「曽」の最高裁判決ではこれらを「限定列挙(常用平易のサンプル)」であって、これが常用平易の全ての漢字を網羅しているわけではないので、ここにない常用平易な漢字があるなら、戸籍に使えるように家庭裁判所は裁量権をもって認めることができるとしています。
したがって、私たちは「家庭裁判所が判断を誤っているから、訂正して欲しい」と訴えていたのであって、法律に背いているわけではないのです。
なぜ家庭裁判所の判決が間違っているかという理由は、最高裁判所に提出した許可抗告に記載したとおりです。常識的に考えれば、名古屋家庭裁判所も名古屋高等裁判所も、その判断が過去の判例(しかも、上告審を扱う高等裁判所の判例です)との間に整合性が取れてないのは、法治国家としておかしいでしょ?
おそらくは、「法律を守るべき」という意見をお寄せくださった方々は、このことをご存じなかったのだろうと思います。
知らないということは、自分たちが申し立てをする正当な権利があるにもかかわらず、気づくことができない。だから、その権利を行使する自由が無知に奪い取られてしまうのです。
けっして、「法律を守るべき」という意見をお寄せくださった人を批判していると思わないでください。私たちだって、こんなことになるまで、戸籍法や過去の最高裁判決を知らなかったんですから。
恐ろしいのは「知らないということに気づいていない」ということです。
● 次に「正直言って、バカじゃない?の一言。法律で決まっている以上、戸籍に使えないものは使えない。漢字を変更すればいいだけの事。ただの親のエゴ。」という意見も多数いただきました。これは、本当なんでしょうか?
そもそも、「法律(特に戸籍法)は確立されたもの」なんでしょうか?
「確立された」という感覚を自分なりに言うなら、「1人の癌患者の症状を、三人の医者が診察をして、その見立てに大きな差異が出ない」ということが、確立されたものであると思います。
が、しかし、法律の世界は違う。担当する裁判所や裁判官、弁護士によって判断が分かれることは、私たちの許可抗告の理由書にある「穹」と「玻」の比較で差が全くないにもかかわらず、裁判所によって判断が真逆に分かれたことから明らかでしょう? この話は、また後でするとして、法律、特に今回は「戸籍法」は、確立されたものなんでしょうか?
そもそも戸籍法自体は、旧戸籍法の時代「略字や符号を用いてはならず、字画明瞭なることを要すると定めてあり(同法28条1項、55条)、子の名に使用する文字についての法律上の制限はなかった(大阪高等裁判所「穹」判決 3.記録 参照)」のです。
しかし、子の名に用いられる漢字にめちゃくちゃ難しいものが多くて、本人や周囲がものすごく不便や支障を生じさせていたので、昭和23年1月1日に、旧法を全面改正の上施行された戸籍法50条1項で「子の名には常用平易な文字を用いなければならない。」、規則60条(当時)で人名に用いられるべき漢字は当用漢字に限るとされました(大阪高等裁判所「穹」判決 3.記録 参照 以下同じ)
ところが、従来からの伝統や特殊な事情に配慮しないまま当用漢字のみに制限したので国民から大きな批判と人名用漢字の範囲の拡大の要望が出ました。
で、
1951年5月25日、92字を人名用漢字として新たに指定
1976年7月30日、28字を追加し、120字となる
1981年10月1日、常用漢字に採り入れられた8字を削除し、54字を追加して166字となる
1990年4月1日、118字を追加し284字となる
1997年12月3日、1字(「琉」)を追加し、285字となる
2004年2月23日、1字(「曽」)を追加し、286字となる
同6月7日、1字(「獅」)を追加し、287字となる
同7月12日、3字(「毘」「瀧」「駕」)を追加し、290字となる
同9月27日、許容字体からの205字と追加された488字を加え、全部で983字となる
2009年4月30日、「祷」「穹」の2字を追加し、985字となる
と、まあ、どんどん変化しているんです。
そもそも、こんなことでもなければ、私は人名用漢字に興味を持つことも、調べることもなかったでしょうね。
そして、私は「交わしたはずのない約束」ならぬ、同意した覚えも、ましてやその法律に関する漢字の選定に意見募集があったこともさえも知らないまま、きめられていったものに、今回縛られて私たちの娘の未来(はちょっとおおげさですねえ^-^;。まあ、この場合は命名の自由ですね)が奪われちゃったんですね。
そもそも、漢字委員会の、意見募集って、どんな風に行われているか、皆さんご存知ですか?
去年11月の新聞に、「もうすぐ、漢字委員会の第二次意見募集がある」って書いてあったのに気づいたのも、玻南の裁判のことがあったからで、そうでなければ、私は気付きもしなかったでしょうね(これは人名用漢字ではなく常用漢字の意見募集でしたが)。
ちなみに、意見募集は「もうすぐある」とは新聞に載っていましたが、その後、いくら新聞を見ても、いつ始まるのか、どうやって応募したらいいのかは見つけられませんでした。
で、仕方ないので、文部科学省まで電話で問い合わせました。そうしたら、「まだ決定していない。そのうちホームページに出るから、そこで確認してください」と言う返事でした。
なんなんだよ、それ~!? まじめに意見募集する気あるの??
そんなの、テレビや新聞じゃあるまいし、「HPで募集」なんてやり方で国民みんなの目に触れるわけないでしょ?? 大体、うちみたいなITデバイド家族は、始めっから参加できないじゃん(怒)
と怒りつつも、ホームページをみると、そこで案内された応募方法は3つ。
メールと、ファックスと郵便。
IT原人家族にも配慮されている? そんなわけない。そもそも、ITに遅れている人には、その応募方法にすら辿り着けないんだから。
この公知方法と募集方法のバランスの悪さは何?
と、文部科学省の募集公示方法に憤懣やるかたなかった私でした。
ホームページでの募集案内って、そもそも関心のない人や、募集される可能性に気づかない人はホームページを開けたりしないし、更には、関心を持ってホームページを開けたものの、その応募方法まで辿り着くのがどんなに難しかったか(ま、これは、我が家のIT技術にも問題がありますが)。
つまりね、法務局も文部科学省も、国民の声を真剣に求めてなんかいないってことじゃないかな?と思う。
真剣に国民に周知して意見を求めるなら、それこそ、委員会がパンクしかねないし。
そんな中で決定されていく約束事(今回は常用漢字だけどね)は、まさに「交わしたはずのない約束」であり、私たちを縛ろうとする国は、まじめに対等に約束を交わす意思なんてはなっからないってことじゃないかな。
それと、人名用漢字(とりわけ別表2)も絶対じゃなく、見直されているしね。
こうやって歴史を見てみると、人名用漢字にまつわる法律自体、ずいぶんと適当です。
恐ろしいことに、人名用漢字(常用漢字)を決めた根拠は、単純に頻度数調査で、つまりは、どんだけ頻回に使われているかっていう読売新聞の調査を元に、使用回数で多い順に決めていました。だから「糞」とか「悪」とか「呪」みたいな、人名に使われたらギョッとするような漢字も入ってて、問題になったんですよね。
ちょっと前に、常用漢字の追加分に「玻」がなかったことについて、新聞記者から意見を求められました。
今回の漢字審議会の委員の1人が『これ(玻)は、常用漢字ではなく、人名用漢字で認めてもらえばいいんじゃないですかね』と述べられていたとおり(文化庁ホームページ漢字審議会議事録参照)、そもそも、常用漢字と人名用漢字は、同じカテゴリーで選別するものではないです。
「選別の基準が違うでしょうから」ぐらいのコメントをしたんだったと思います。
つまり、常用漢字をそのまま人名用に当てはめるのは、不自然で、別表2を足したとしても、不完全なのは、先に述べた通りだし、また、常用漢字では、とんでもないものも入っていて、それこそ、施行規則60条の定めは「帯に短したすきに長し」っていうのがぴったりかも、と思っています。
なので、常用漢字に「玻」があれば、それは一挙に問題解決ですが、なかったとしても、それが「玻」が人名用としてふさわしくないことの理由にはならないということです。
話はずいぶん逸れましたが、つまり、法津(少なくとも戸籍法)は絶対の真理でもなんでもなく、当面の約束事で、これからも、私たちが見直していかなければならないものだということです。
でも、この法律の歴史について無知なままでいるなら、この法律を見直す未来の自由を失うことになります。
● 家庭裁判所の嘘?無知? と 東区役所の意地?意地悪?
家庭裁判所の審判書の中に、「戸籍事務に混乱を起こす」という指摘がありましたが、果たしてそうなんでしょうか?
実は、嘘です。だって、「玻」は、戸籍統一文字に入っているんですから。法務省のホームページで調べてみてください。ちゃんと、戸籍統一文字番号もあります。
戸籍統一文字が何かって?
平成6年法律大67号による戸籍法の改正により、戸籍事務を電子処理組織によって取り扱うことができるようになったところ、JIS第1水準及び第2水準に規定されている約6400文字以外の漢字について、届出などの情報をオンラインにより市区町村間で送受信する場合のいわゆる文字化け現象を防止するため、戸籍に使用することのできる文字のすべてをコンピューター画面に表示し、かつ、オンライン通信において正しく送受信できる仕組みを整備したものが、戸籍統一文字である。漢字に関しては、約5万字の正字のほか、俗事なども含めて合計約5万6000字が登録されており、本件文字も登録されている。
(玻は戸籍統一文字番号234410)
ということです。
つまり、「玻」によって戸籍事務に混乱なんておきないんですよ。実は。
「祷」「穹」を認めた大阪高裁の判決文の中でも、過去において混乱はおきていないし、これらの字を認めても混乱はおきないと断定されています。
ちゃんと、市役所のPCに入っているんですから。しかも、ちゃんと戸籍統一文字番号まであります。
そりゃ、そうですよね。だって、今実際に苗字として戸籍に使われているし、地名にも使われていますから。
多分、家庭裁判所の裁判官は、「玻」が戸籍統一文字だってことをご存じなかったってことなんでしょうね。
そして、名古屋東区役所の、児童福祉課の職員の方も、きっとご存じなかったんでしょうね(笑)。
仕事の都合で春から保育園に入園したいと申込をしたのですが、その決定通知書に「矢藤玻南」と記載するのに、「玻」の字だけ、「波」を打ち出して、修正テープでさんずいへんを消し、おうへんに手書きで直す、という、とても手の込んだ記載方法を選択していました。
まさか、東区役所の職員が、区役所のPCに「玻」の字が戸籍統一文字として載っていることをご存じなかったとは思えませんが(笑)。もしもそうだとしたら、随分な不見識ですね(笑)。
そんな、枝葉末節をあげつらってどうするの?といわれそうですが、私はこの件から「裁判官も、結構知らないことがあるんだ」ってことを学びました。考えてみれば当然ですよね。医者にも専門があるように、弁護士にも得意不得意ジャンルがあるように、裁判官だって、全ての家裁月報を読んで覚えているわけではないでしょうから。
もし、読んで覚えていながらこの結果を出したとしてたら、名古屋高等裁判所の裁判官は相当恣意的な「最初に棄却ありき」の法解釈をしたのかもしれません。
だから、裁判官の判断に間違いはないってことはない、と言うことです。何事も、本当かどうか、事実を集めて検証することは大事ってことですね。なんでも、権威のある人(ない人でも)の言葉を鵜呑みにすることは、自分の脳みそを明け渡すようなもので、すごく恐ろしいことです。
ですから、これを読まれた方は、ぜひ、私の書いていることが本当か、私の思い込みや間違いがないかを確認なさった上で、ご自分の考えを構築されることをお勧めします。
もしかすると、私は希代のうそつきかもしれませんよ(笑)。
● 「これ(「穹」を認めた大阪高裁判決)を、高等裁判所に理由書を出すときに見つけることができていれば可能性があったんだけどなあ・・・」
これは、ある専門の方とお話したときの、その方の感想です。
その方がそのように言ったのは、日本の裁判が三審制とはいえ、一審二審で負けたものが、三審(最高裁)でひっくり返ることはまずない、という現実があるからです。
私たちは、その言葉の真偽のほどはわかりませんでしたが、今は「ああ、こういうことか」と実感しています。
なにせ、最高裁判所の審判理由はきわめてシンプル。「高等裁判所が正しい」。私たちが書いた抗告理由についてのコメントはまったくなし。なぜ、私たちの理由が採用されなかったのかも説明はなし。「ちょっとは仕事しろよ(怒)」と思いますが、ある別の法律の専門家のコメント。
「考えてみればわかるでしょ。彼ら(裁判官)は、役人で、誰だって仕事したくない。なじめから、認めたくない。そこを。どうやって、『認めてやらないと仕方ないな』と思わせるかが、大事」
ずいぶんと話は逸れましたが、つまりは、高等裁判所に抗告するときでさえも、私たちは古い判例ばかりを読んでいて、最近の裁判所の動きについて無知でした。
家庭裁判所に申し立てるときには、私たちは、戸籍法についても、不服申し立てについても、全くと言っていいほどの無知でした。だから、玻南の名前を「玻南」と戸籍に載せる自由(この場合は権利かな)を失いました。
高等裁判所に申し立てるとき、もしも私たちが「穹」判決を知っていたなら勝ち目があったにもかかわらず、無知でいたために、またもや「玻南」と戸籍に載せる自由(この場合は権利かな)を失いました。
日本は三審制だから、と考え、一審二審と負けたものがひっくり返ることはほとんどないことを知らなかったために、私たちは絶えず後手後手に回って、ついに、「玻南」として出生届をする権利を失いました。
全ては、私たちが無知であったがために失ったものでした。
私たちの無知が、私たちの自由(命名の自由)を奪ってしまいました。
これほど、自分たちの無知を悔いたことはありません。大学入試の後よりも、後悔しました。
以下、PTAの嵐を避けつつ、更新予定。遭難してるかもしれませんが。
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