2010年4月28日水曜日

はじめから振り返って

 最近の玻南の成長は、目を見張るものがあります。・・・というか、今までが、兄弟の中でも、あんまりぱっとしたところがなかったというのが正しいのかもしてませんが、そこは「馬鹿親(^o^)」、どんな子も、心に「愛情」ってフィルターがかかると、世界一の賢い、かわいい美人に見えるから、盲目って怖いものです(笑)

 で、どんな成長か、というと、「トイレ」です。
 
 今の玻南のマイブームは「あっあ!!(トイレ)」です。
 つい最近、トイレに入っている私を不思議そうに眺める玻南を、トイレに座らせたら、なんといきなり、力んで、ちゃんとシーするんです!!!

 それを、馬鹿みたいに目じり下げまくって黄色い声でほめまくったら、それがどうも玻南ツボにはまったらしく、それ以来、「あっあ!!」といって、バリバリとオムツカバーをはずし、中身を確認してはいそいそとトイレに行きます。

 最初のうちはうれしかったのですが、一時間に何回も座られて、挙句、チョロンっとしか出ないのを、ほめろと要求されて・・・ちょっとうんざりしていますが、でも、自慢げな玻南姫の顔を見ると、ついうっかり黄色い声でほめてしまう私は、学習しない親っていうんでしょうね・・・(泣)


 すみません。で、本題の、「はじめから振り返って」に戻ります。


 そもそも、「なんでこのご時世に5人も生むのか?」という話ですが、それは、長女瑠都の誕生から始まります。
 長女は、私としては非常に難産で苦しい思いをしてこの世に迎えたのですが、
「おめでとうございます、女の赤ちゃんですよ」といわれ、
「女の子☆?」と、期待に満ちて見ると、「???あれ?? 女の子?だよね」

 それはそれはパパにそっくりで毛深く赤黒くなった顔でした。このときに
「今度は、私に似た女の子が欲しい」と思ったのです。

 理想としては、女の子が二人の後に男の子が二人、ぐらいだったのですが、その後もパパそっくりの男の子が生まれ続け、男3人となりました。このあたりから、「もう一人女の子」というハイリスクなチャレンジをするかどうか迷いましたが、次男が年長になることには、「男4人も楽しいだろう。女の子なら、なおヨシ!!」くらいの心で真剣に考えはじめました。

 つまり、「何でこのご時世に5人も生むのか」の答えは「女の子がもう一人欲しかったから」です。それに加えていうなら、子育てって、2人まではホントに辛いことばっかりだけど、3人目からは、何にも見えなくなるらしく、もしかすると脳内がエンドルフィンでいっぱいになるのか、「可愛い」「オモシロイ」ばっかりになります。4人目になると、寝顔を見るだけで切なくなって涙が出るほどにムネキュンになるほどに、愛しくなって、「子供って、こんなに切なくって、可愛くって、酸欠になりそうなぐらいため息が出るものだっけ?」と思うほど、幸せになって、5人目になると「ハニ~ちゃん」と人前で娘にセクハラしてしまうほど、何もかもが可愛くなってしまいます。
 じゃあ、6人目はありかって?  (笑)とりあえず、ノーコメントです。体力と財力に限りがなければ欲しいですが、腰痛もちの私には難しい?かも。けっして、真璃ちゃん(すでに女の子決定?)が来たいというなら、歓迎しますが、出迎えに行く体力はなさそうです。

 で、本筋。

 次男が卒園するころ、めでたく妊娠しました。性別はわかりませんでしたが、まりちゃんと名づけました。漢字は未定です。しかし、残念ながら、そのまま天国に行ってしまいました。もし、あの世で会って、男の子だったら、「いさや」に変えないとね。

 一時期激しく落ち込みましたが、またも「もう一人女の子」にチャレンジしました。
 めでたく、妊娠したときには、名前を「はなちゃん」と決めましたが、病院で妊娠がわかった時点で「心拍が確認できないので、難しい。入院の予約をして、出したほうがいい」といわれ、それでも、一週間待ってもらって、心拍をもう一度確認して欲しいとお願いしました。
 が、気の早い子だったようで、1週間を待たずして、天国へ帰ってしまいました。というか、もしかすると、入れ物だけで魂はなかったかもしれませんね。

 この時点では、「もう、この年では妊娠は無理なのかも」と、あきらめムードになっていました。もちろん、この年で妊娠・出産をされる方もたくさんいらっしゃいます。
 しかし、私の場合は「連作障害」で畑は痩せているでしょうし、「私には、もう無理かも」と思っていました。

 でも、「欲しい」と思いつめなかったのがよかったのか、また妊娠しました。
 このときは、名前をどうするか迷ったのですが、夢でおむつ交換をして、「ついていない」と思ったこともあって(性別は一番の関心ごとだったので、夢にまで出てきたんでしょうね(笑))、「女の子」と勝手に断定しました。

 で、悩んだのが名前。どうするか?
 「まり」「はな」はすでにつけてあるし。ほかに日本人の女の子向けな名前は聖書で見つけられなかったし。「さら」もあるけど、漢字は今ひとつだったし。
 で、相談して、天国の子達は、性別を確認した後に、男の子の名前にする可能性もあるし、今のところ平仮名で命名してあるので、漢字は天国に行ってから考えればいいから、漢字違いで同じ名前もいいだろう。と考えました(感覚でいうと、欧米の親子で同じ名前にシニアかジュニアをつけて区別する感じです)。

 で、悩みましたが、漢字辞典で字を調べていたパパが「玻」に気づきました。「瑠都」なら「玻南」だろう、ということで、5人目は「玻南」になりました。

 しかし、手前味噌ながら、これが実によく、娘たち自身をあらわしているんです。
「瑠都」の瑠は、もう皆さんご存知のとおり、仏典に出てくる七宝の一つ「瑠璃」から、貴重な宝物(私たち夫婦にとってね)を意味し、都は、人が集まるにぎやかな所、という意味があります。
 私たちの宝である長女の元に、次々に弟妹が集まり、それはそれは、にぎやかになりました。
 
 で、「玻南」ですが、これも玻は仏典に出てくる七宝の一つ「玻璃」から、「南」は、暖かく、周りを囲まれた所、という意味を持つことから、私たち家族みんなが待ち望んだこの家に生まれてきた宝物を意味します。妊娠中も、それはそれは、長女や息子たちが、とりわけ三男が楽しみに楽しみにおなかをなぜては話しかけていました。

 話は逸れますが、三男は、今でも一番玻南のことを可愛がり、物を取り上げられても、たたかれてもつねられても「あ~ん、玻南ちゃん、やめてよ~」というばかりで、手を出すことはありません。(もちろん、お兄ちゃんたちとはしょっちゅう戦っていますので、けっしてヨワシ君というわけではないと思います。)

 それどころか、折に触れては、「玻南ちゃん、かわいい~」をにっこり眺めています。
 そんな三男愛世(まなせ)の姿を見て、「オマエこそが、『可愛い』だろう」と夫婦で突っ込みを入れつつも、幸せかみ締める毎日です。

 これからも、こんな毎日が続いてくれたらいいのに。
 今年長女が高2になってしまいましたが、成績もいまひとつパッとせず、名古屋の大学進学は難しいだろうなあ~と思うにつれ、子供たちを手放すときが来るさびしい予感に、涙が出そうになる今日この頃です。

 話は戻り、そんなことで、姉が「瑠都」なら妹は「玻南」、二人とも、ぴったりな名前なんです。
と、またも馬鹿親満開で申し訳ありません。

 これがそもそもの始まりでした。

 お腹の中にいたときも、生まれたときにも、まさか、こんな騒動になるなんて、夢にも思っていませんでした。

人生、一寸先は闇って言うのは本当ですねえ(笑)

2010年4月21日水曜日

専門家の意見見つけました。

今回の件について、大学の先生が詳しく述べているサイト?ブログ?を見つけました。http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2010/01/28/hana1/ 「玻」は常用平易か
京大の安岡先生という方が書いています。素人のたわごとなど信用できないという人は、ぜひそちらを参考にしてください。
他にもこの先生は「人名用漢字以外を子供の名づけに使うには」 という記事もアップされており、その他にも人名用漢字についていろいろ発信されています。もっと早くにこうした記事にたどり着いていれば、と思うと、ITデバイドという言葉が身にしみます。

2010年4月19日月曜日

無知が自由を奪うという恐怖 妻のほう

「スキャンダル」というバンドが歌っている曲の中に「交わした筈のない約束が、今日も、僕らの未来を奪おうとする」という歌詞がありましたが、私たちも同じように、知らないうちに自分たちの未来を奪われていってしまっているのに、ほとんどの人がそのことに気づいていない。

 これが、今回の「玻」をめぐる申し立てで感じたことでした。

 何でそんな話になるのかって?

 私たちが募集したアンケートは、アンケートの回答そのものよりも、それに付随する(もしくは、回答そっちのけで寄せられる)自由な意見にこそ価値があったと感じています。

 意見は、とても感情豊かなものが多く寄せられました。

以前、このブログでも、自由記載の大まかなジャンル分けを載せたと思いますが、一例を挙げるとこんな感じです。

「おはようございます。はじめまして、中日新聞を読みましてメールさせていただきました。
「玻」についてですが、正直な話、字の意味がわかりませんでした。
名前に使って良い文字かについてですが、私自身の意見としては全然問題ないと思います。
なぜ名古屋市は受理しないのか?見当もつきません。日本国の勝手な法律により名前がつけられないのは
日本国の政治と同様で身勝手でわがままそのものだと思いました。
私も近々子供が生まれるため名前思案中で、子供には良い名前をプレゼントしたい気持ちはよくわかります。
日本国家に負けないでください。諦めて妥協など絶対しないでください。
陰ながら応援してます。頑張って!」といった心温まるものから

「親のエゴ丸出しで子供に戸籍を与えないとかどうかしてます。使っていい文字か調べず、受理されなかったから逆ギレですか?どの親もきちんと調べて、その中から命名してるんですよ!『プレゼントをあげられない』のではなく、あなた達が他人のせいにして与えようとしてないだけじゃないですか。はっきり言って自己中もいいとこです。仮に認められたとしても、関わるとめんどくさい親のレッテル貼られて、子供に被害があるかもしれませんよ。わたしだったらあなた達みたいな人と関わりたくないですもの。
世の中にはルールがあるんです。それに子供はペットじゃないんですから!親の所有物でもないし、一人の人間ですよ!自分達のわがままを通そうとする前に、子の将来を考えてください。同じ親として本当に恥ずかしい。
現在のルール上使えない文字なのだから『使えない』に決まってます。また受理されなくて当たり前。お子さんが無戸籍状態にあるのは、役所が悪いんじゃない。ご両親に責任があると思います。」と言ったものまで、種々様々でした。

 この意見の表面にとらわれて、この意見の方々を批判したりしないでくださいね。賛成も反対も、私たちの事件を、自分のこととして真剣に捉えて下さったからこその、「愛と関心」の表れだと、私たちは今も感謝しているんです。

たとえ、私たちに厳しい意見だったとしても、「愛」です。正確には「愛の裏返し」です。愛の反対は「無関心」であることを思えば、「怒り」や「叱責」が深い愛の裏側であることは容易に理解できるでしょう。世界中が無関心に満ちている時代に寄せられたこれらすべての意見に、私たちがどれだけ深く感謝しているか。だから、どんな意見も批判しないで、その愛と関心に敬意を持ってくださいね。

 話を元に戻すと、いただいたご意見を読んだ感想は、冒頭の様に「『無知は自由を奪』い、無知ゆえに『交わした筈のない約束(法律)』に、『僕らの未来を奪』わせている」ということでした。

 まだ分かりにくいですよね。

●  「自ずと社会にはルールがあり、そのルールの中で適応していくべきだと考えます。今回のことは社会的なルールを無視した極めて勝手でエゴな振る舞いだと思います。抗告など「もってのほか」なことです。
名前の由来がどうであれ、日本人であれば日本の今のルールで使用出来る範囲で選ぶべきです。ルールが社会や環境に適応していないと考えるのであれば改正、改訂、変更すべく働きかけるべきでしょう。法律が今の社会に合ってないからと言って、勝手な解釈の基でその法を犯すような事が許されますか?あなたの主張はそのような事だと思います。
いつまでもお子さんの戸籍が無い状態で、親のエゴの犠牲になって
いるお子さんが気の毒です。」という意見に代表されるような良識ある意見も多数お寄せいただきました。

 いずれの意見も、戸籍法をご存じないようでした。

 重複になりますが、そもそも戸籍法に定める常用平易の雛形になるのは「常用漢字」と「別表2の漢字」です。
「曽」の最高裁判決ではこれらを「限定列挙(常用平易のサンプル)」であって、これが常用平易の全ての漢字を網羅しているわけではないので、ここにない常用平易な漢字があるなら、戸籍に使えるように家庭裁判所は裁量権をもって認めることができるとしています。

したがって、私たちは「家庭裁判所が判断を誤っているから、訂正して欲しい」と訴えていたのであって、法律に背いているわけではないのです。

なぜ家庭裁判所の判決が間違っているかという理由は、最高裁判所に提出した許可抗告に記載したとおりです。常識的に考えれば、名古屋家庭裁判所も名古屋高等裁判所も、その判断が過去の判例(しかも、上告審を扱う高等裁判所の判例です)との間に整合性が取れてないのは、法治国家としておかしいでしょ?

おそらくは、「法律を守るべき」という意見をお寄せくださった方々は、このことをご存じなかったのだろうと思います。

知らないということは、自分たちが申し立てをする正当な権利があるにもかかわらず、気づくことができない。だから、その権利を行使する自由が無知に奪い取られてしまうのです。

けっして、「法律を守るべき」という意見をお寄せくださった人を批判していると思わないでください。私たちだって、こんなことになるまで、戸籍法や過去の最高裁判決を知らなかったんですから。

恐ろしいのは「知らないということに気づいていない」ということです。

●  次に「正直言って、バカじゃない?の一言。法律で決まっている以上、戸籍に使えないものは使えない。漢字を変更すればいいだけの事。ただの親のエゴ。」という意見も多数いただきました。これは、本当なんでしょうか?

そもそも、「法律(特に戸籍法)は確立されたもの」なんでしょうか?

 「確立された」という感覚を自分なりに言うなら、「1人の癌患者の症状を、三人の医者が診察をして、その見立てに大きな差異が出ない」ということが、確立されたものであると思います。

 が、しかし、法律の世界は違う。担当する裁判所や裁判官、弁護士によって判断が分かれることは、私たちの許可抗告の理由書にある「穹」と「玻」の比較で差が全くないにもかかわらず、裁判所によって判断が真逆に分かれたことから明らかでしょう? この話は、また後でするとして、法律、特に今回は「戸籍法」は、確立されたものなんでしょうか?

 そもそも戸籍法自体は、旧戸籍法の時代「略字や符号を用いてはならず、字画明瞭なることを要すると定めてあり(同法28条1項、55条)、子の名に使用する文字についての法律上の制限はなかった(大阪高等裁判所「穹」判決 3.記録 参照)」のです。

 しかし、子の名に用いられる漢字にめちゃくちゃ難しいものが多くて、本人や周囲がものすごく不便や支障を生じさせていたので、昭和23年1月1日に、旧法を全面改正の上施行された戸籍法50条1項で「子の名には常用平易な文字を用いなければならない。」、規則60条(当時)で人名に用いられるべき漢字は当用漢字に限るとされました(大阪高等裁判所「穹」判決 3.記録 参照 以下同じ)

ところが、従来からの伝統や特殊な事情に配慮しないまま当用漢字のみに制限したので国民から大きな批判と人名用漢字の範囲の拡大の要望が出ました。 

で、

1951年5月25日、92字を人名用漢字として新たに指定

1976年7月30日、28字を追加し、120字となる

1981年10月1日、常用漢字に採り入れられた8字を削除し、54字を追加して166字となる

1990年4月1日、118字を追加し284字となる

1997年12月3日、1字(「琉」)を追加し、285字となる  

2004年2月23日、1字(「曽」)を追加し、286字となる

同6月7日、1字(「獅」)を追加し、287字となる

同7月12日、3字(「毘」「瀧」「駕」)を追加し、290字となる

同9月27日、許容字体からの205字と追加された488字を加え、全部で983字となる

2009年4月30日、「祷」「穹」の2字を追加し、985字となる

と、まあ、どんどん変化しているんです。

 そもそも、こんなことでもなければ、私は人名用漢字に興味を持つことも、調べることもなかったでしょうね。

 そして、私は「交わしたはずのない約束」ならぬ、同意した覚えも、ましてやその法律に関する漢字の選定に意見募集があったこともさえも知らないまま、きめられていったものに、今回縛られて私たちの娘の未来(はちょっとおおげさですねえ^-^;。まあ、この場合は命名の自由ですね)が奪われちゃったんですね。

 そもそも、漢字委員会の、意見募集って、どんな風に行われているか、皆さんご存知ですか?

 去年11月の新聞に、「もうすぐ、漢字委員会の第二次意見募集がある」って書いてあったのに気づいたのも、玻南の裁判のことがあったからで、そうでなければ、私は気付きもしなかったでしょうね(これは人名用漢字ではなく常用漢字の意見募集でしたが)。

 ちなみに、意見募集は「もうすぐある」とは新聞に載っていましたが、その後、いくら新聞を見ても、いつ始まるのか、どうやって応募したらいいのかは見つけられませんでした。

 で、仕方ないので、文部科学省まで電話で問い合わせました。そうしたら、「まだ決定していない。そのうちホームページに出るから、そこで確認してください」と言う返事でした。

 なんなんだよ、それ~!? まじめに意見募集する気あるの??

 そんなの、テレビや新聞じゃあるまいし、「HPで募集」なんてやり方で国民みんなの目に触れるわけないでしょ?? 大体、うちみたいなITデバイド家族は、始めっから参加できないじゃん(怒)

 と怒りつつも、ホームページをみると、そこで案内された応募方法は3つ。

メールと、ファックスと郵便。

IT原人家族にも配慮されている? そんなわけない。そもそも、ITに遅れている人には、その応募方法にすら辿り着けないんだから。

 この公知方法と募集方法のバランスの悪さは何?

 と、文部科学省の募集公示方法に憤懣やるかたなかった私でした。

 ホームページでの募集案内って、そもそも関心のない人や、募集される可能性に気づかない人はホームページを開けたりしないし、更には、関心を持ってホームページを開けたものの、その応募方法まで辿り着くのがどんなに難しかったか(ま、これは、我が家のIT技術にも問題がありますが)。

 つまりね、法務局も文部科学省も、国民の声を真剣に求めてなんかいないってことじゃないかな?と思う。

 真剣に国民に周知して意見を求めるなら、それこそ、委員会がパンクしかねないし。

 そんな中で決定されていく約束事(今回は常用漢字だけどね)は、まさに「交わしたはずのない約束」であり、私たちを縛ろうとする国は、まじめに対等に約束を交わす意思なんてはなっからないってことじゃないかな。

 それと、人名用漢字(とりわけ別表2)も絶対じゃなく、見直されているしね。

 こうやって歴史を見てみると、人名用漢字にまつわる法律自体、ずいぶんと適当です。

恐ろしいことに、人名用漢字(常用漢字)を決めた根拠は、単純に頻度数調査で、つまりは、どんだけ頻回に使われているかっていう読売新聞の調査を元に、使用回数で多い順に決めていました。だから「糞」とか「悪」とか「呪」みたいな、人名に使われたらギョッとするような漢字も入ってて、問題になったんですよね。

 ちょっと前に、常用漢字の追加分に「玻」がなかったことについて、新聞記者から意見を求められました。
今回の漢字審議会の委員の1人が『これ(玻)は、常用漢字ではなく、人名用漢字で認めてもらえばいいんじゃないですかね』と述べられていたとおり(文化庁ホームページ漢字審議会議事録参照)、そもそも、常用漢字と人名用漢字は、同じカテゴリーで選別するものではないです。
「選別の基準が違うでしょうから」ぐらいのコメントをしたんだったと思います。

 つまり、常用漢字をそのまま人名用に当てはめるのは、不自然で、別表2を足したとしても、不完全なのは、先に述べた通りだし、また、常用漢字では、とんでもないものも入っていて、それこそ、施行規則60条の定めは「帯に短したすきに長し」っていうのがぴったりかも、と思っています。

 なので、常用漢字に「玻」があれば、それは一挙に問題解決ですが、なかったとしても、それが「玻」が人名用としてふさわしくないことの理由にはならないということです。

話はずいぶん逸れましたが、つまり、法津(少なくとも戸籍法)は絶対の真理でもなんでもなく、当面の約束事で、これからも、私たちが見直していかなければならないものだということです。

 でも、この法律の歴史について無知なままでいるなら、この法律を見直す未来の自由を失うことになります。

●  家庭裁判所の嘘?無知? と 東区役所の意地?意地悪?

家庭裁判所の審判書の中に、「戸籍事務に混乱を起こす」という指摘がありましたが、果たしてそうなんでしょうか?

実は、嘘です。だって、「玻」は、戸籍統一文字に入っているんですから。法務省のホームページで調べてみてください。ちゃんと、戸籍統一文字番号もあります。

戸籍統一文字が何かって?

平成6年法律大67号による戸籍法の改正により、戸籍事務を電子処理組織によって取り扱うことができるようになったところ、JIS第1水準及び第2水準に規定されている約6400文字以外の漢字について、届出などの情報をオンラインにより市区町村間で送受信する場合のいわゆる文字化け現象を防止するため、戸籍に使用することのできる文字のすべてをコンピューター画面に表示し、かつ、オンライン通信において正しく送受信できる仕組みを整備したものが、戸籍統一文字である。漢字に関しては、約5万字の正字のほか、俗事なども含めて合計約5万6000字が登録されており、本件文字も登録されている。

(玻は戸籍統一文字番号234410)

ということです。

つまり、「玻」によって戸籍事務に混乱なんておきないんですよ。実は。
「祷」「穹」を認めた大阪高裁の判決文の中でも、過去において混乱はおきていないし、これらの字を認めても混乱はおきないと断定されています。
ちゃんと、市役所のPCに入っているんですから。しかも、ちゃんと戸籍統一文字番号まであります。
 そりゃ、そうですよね。だって、今実際に苗字として戸籍に使われているし、地名にも使われていますから。
多分、家庭裁判所の裁判官は、「玻」が戸籍統一文字だってことをご存じなかったってことなんでしょうね。

そして、名古屋東区役所の、児童福祉課の職員の方も、きっとご存じなかったんでしょうね(笑)。

仕事の都合で春から保育園に入園したいと申込をしたのですが、その決定通知書に「矢藤玻南」と記載するのに、「玻」の字だけ、「波」を打ち出して、修正テープでさんずいへんを消し、おうへんに手書きで直す、という、とても手の込んだ記載方法を選択していました。

まさか、東区役所の職員が、区役所のPCに「玻」の字が戸籍統一文字として載っていることをご存じなかったとは思えませんが(笑)。もしもそうだとしたら、随分な不見識ですね(笑)。

そんな、枝葉末節をあげつらってどうするの?といわれそうですが、私はこの件から「裁判官も、結構知らないことがあるんだ」ってことを学びました。考えてみれば当然ですよね。医者にも専門があるように、弁護士にも得意不得意ジャンルがあるように、裁判官だって、全ての家裁月報を読んで覚えているわけではないでしょうから。

もし、読んで覚えていながらこの結果を出したとしてたら、名古屋高等裁判所の裁判官は相当恣意的な「最初に棄却ありき」の法解釈をしたのかもしれません。

だから、裁判官の判断に間違いはないってことはない、と言うことです。何事も、本当かどうか、事実を集めて検証することは大事ってことですね。なんでも、権威のある人(ない人でも)の言葉を鵜呑みにすることは、自分の脳みそを明け渡すようなもので、すごく恐ろしいことです。

ですから、これを読まれた方は、ぜひ、私の書いていることが本当か、私の思い込みや間違いがないかを確認なさった上で、ご自分の考えを構築されることをお勧めします。

もしかすると、私は希代のうそつきかもしれませんよ(笑)。

● 「これ(「穹」を認めた大阪高裁判決)を、高等裁判所に理由書を出すときに見つけることができていれば可能性があったんだけどなあ・・・」

これは、ある専門の方とお話したときの、その方の感想です。

その方がそのように言ったのは、日本の裁判が三審制とはいえ、一審二審で負けたものが、三審(最高裁)でひっくり返ることはまずない、という現実があるからです。

私たちは、その言葉の真偽のほどはわかりませんでしたが、今は「ああ、こういうことか」と実感しています。

なにせ、最高裁判所の審判理由はきわめてシンプル。「高等裁判所が正しい」。私たちが書いた抗告理由についてのコメントはまったくなし。なぜ、私たちの理由が採用されなかったのかも説明はなし。「ちょっとは仕事しろよ(怒)」と思いますが、ある別の法律の専門家のコメント。

「考えてみればわかるでしょ。彼ら(裁判官)は、役人で、誰だって仕事したくない。なじめから、認めたくない。そこを。どうやって、『認めてやらないと仕方ないな』と思わせるかが、大事」

ずいぶんと話は逸れましたが、つまりは、高等裁判所に抗告するときでさえも、私たちは古い判例ばかりを読んでいて、最近の裁判所の動きについて無知でした。

家庭裁判所に申し立てるときには、私たちは、戸籍法についても、不服申し立てについても、全くと言っていいほどの無知でした。だから、玻南の名前を「玻南」と戸籍に載せる自由(この場合は権利かな)を失いました。

高等裁判所に申し立てるとき、もしも私たちが「穹」判決を知っていたなら勝ち目があったにもかかわらず、無知でいたために、またもや「玻南」と戸籍に載せる自由(この場合は権利かな)を失いました。

日本は三審制だから、と考え、一審二審と負けたものがひっくり返ることはほとんどないことを知らなかったために、私たちは絶えず後手後手に回って、ついに、「玻南」として出生届をする権利を失いました。

全ては、私たちが無知であったがために失ったものでした。
私たちの無知が、私たちの自由(命名の自由)を奪ってしまいました。
これほど、自分たちの無知を悔いたことはありません。大学入試の後よりも、後悔しました。

以下、PTAの嵐を避けつつ、更新予定。遭難してるかもしれませんが。

2010年4月14日水曜日

無知ゆえに失ってしまったもの(夫のほう)

 許可抗告の申立書を作成していた時に、ずっとひとつの不安がありました。金銭の問題ではありません。最高裁に申し立てても4200円しかかかりませんでしたから(高裁2000円、家裁800円だったと思う。弁護士には相談しかしていなし、無料相談も何回か使って、自分達で文章を仕上げたので弁護士への依頼費はかかっていない)。
 私達のこの裁判がやぶへびとなって、裁判所へ申し立てすることによって人名用漢字を増やすことができるという「国民の権利」が失われるのではないかということです。
 許可抗告ができる理由は、大阪高裁と名古屋高裁で、同様のケースにもかかわらず判断が分かれていることがおかしいということです。そして両高裁が根拠としているのは、H15の「曽」の字の使用を認めた最高裁判決です(ちなみに漢字使用で最高裁まできたのはこれが初めて、「玻」は2件目だそうです。)。この最高裁判決において、「明らかに常用平易な文字であれば名前に使用することができる」という基準が示されました。この判決を受けて「毘」「瀧」「獅」「駕」が立て続けに認められたわけですが、「明らかに」という証明は実に難しく、「明らかに」ならないものでした。ここに判断が分かれた理由があります。(以下申立書からの引用を含みます)
 私達と、「穹」を認めた大阪高裁は、なぜ戸籍法50条1項「子の名には常用平易な文字を用いなければならない」が存在するのか、その立法趣旨に立ち返りました。すると、「戸籍法50条1項が子の名には常用平易な文字を用いなければならないこととしたのは、子の名に日常使われない文字や難解な文字が用いられるときは、これによって命名された本人のみならず、他者にも社会生活上の不便や支障が生ずるおそれがあるため、これを防止する趣旨である。」(最高裁判所判例解説民事篇平成15年度(下)857頁)とありました。そうであるなら、当該文字を使うことで、命名された本人や関係者に、社会生活上、多大な不便や支障を生じていなければ、戸籍法50条1項の立法趣旨を満たすので、明らかに常用平易であるといえるのではと考えました。大阪高裁判決は、本件文字を子の名前として使用した場合、戸籍法50条立法趣旨に照らして、社会生活において、命名された本人や関係者に不便や支障が生じるか否かの観点で、常用平易性を解釈、検討しています。
 一方、名古屋高裁は、戸籍法50条立法趣旨は関係なく、常用平易性を、常用性のみに重点を置いて解釈、検討しています。(だからこそ、平易性に関連した基準をいくら満たしたとしても、「それだけでは~認められない。」と判断されます。)そして常用性=社会においてあまねく広く多用されていることと解釈しています。それは判決文中の否定理由として、「多用されているとはいえず」「多いとまで認めることができず」「広く多用されているとまでは認めがたい」「広く国民に知られている~事実は認められない」と4箇所も記載されていることから明らかです。
 このように、どの判断基準に重きを置くかが違うため、名古屋高裁判決では、大阪高裁判決の判断基準そのものである、現実に不便は生じず、困らないで使えてますよという話は、そもそも判断基準にならないとして除外しています。しかし、不便が生じないことと、常用性とどちらが優先されるべきかは、社会をよくするために法が存在することを考えれば、戸籍法50条1項の立法趣旨である、「命名された本人や関係者に、社会生活上、多大な不便や支障が生じないこと」が優先されてしかるべきと考え、以上から、私達は、名古屋高裁が、戸籍法50条1項の解釈を誤っていると考え、許可抗告したわけです。

 そして今回最高裁判決が出て、私達が負けたということは、名古屋高裁の判断基準を最高裁が支持したことになります。つまり、上記した大阪高裁の判断基準が使えなくなるということになります。
 玻南が、「大阪で生まれた女」だったら名前が認められたのに、と今までは思っていたのですが、この判決で大阪高裁も、名古屋高裁(=最高裁)の判断基準に従わざるを得なくなるので大阪でも無理になるでしょう。するとどうなるかは、申し立て書に書いたことが現実になると思います。(以下引用)

 名古屋高裁判決の、常用性のみに重きを置く解釈では、民事月報9月号38頁で述べられている通り、漢字出現頻度数調査で、ある程度の数を満たさなかった(広く多用されておらず、したがって人名用漢字部会で検討する文字に値しない)時点で、明らかに常用されていないことになり、名前に使えなくなります。しかしそれでは「玻」「穹」のように特定の分野にのみ頻出する文字は絶対に認められません。そもそも、漢字出現頻度数調査(2)で、約3300万字の活字のうち、出現頻度3012位までの漢字の出現回数の累積度数だけで、全体の99.56%を占めている現実(民事月報5月号165頁)があるので、常用性のみに重きを置く解釈では、これ以下の字が認められる事は100%不可能です。(「玻」は3992位、「穹」は4194位)
 こうした状況を解決するために、家庭裁判所の裁量権があるのではないでしょうか?もしこの裁判で私たちの主張が認められない(名古屋家裁、名古屋高裁の考え方が認められる)のなら、家庭裁判所は、戸籍法50条1項を、常用性のみに重きを置いて解釈し、判断するようになるので、上述したように、裁量権により字が増えることが不可能になることは明らかです。(現在でも、家庭裁判所では、平成15年最高裁判決をうけて、常用平易であるだけでなく、「明らかに」常用平易であることが字の認否の判断基準になっています。)それは人名漢字選定に国民が関わることを不可能にするに等しく、戸籍法50条制定後、「悠」「琉」「曽」等の字の裁判を契機に、人名漢字を増やしてきた今までの経緯に大きく逆行するものと考えます。また、今回提出した意見書でも述べられている、人名漢字の範囲の拡張や、常用漢字の大幅な増加を進めてきている、日本人の文字観並びに文字政策の変遷とも、大きく逆行するものだと考えます。

 悠仁親王の「悠」の字も、私達国民は裁判所へ申し立てることで、人名用漢字として手にしてきました。上述した理由で、私達国民はこの権利をほぼ失うこととなりました。この事態を招いたのが私達の訴えであるわけです。

 無知は自由を失わせます。私達は無知でしたので、玻南を1年以上も無戸籍の状態でほっておくという愚を犯し、人名用漢字を増やす自由も失ってしまいました。



 実際、この判決が下級審に影響を与えることはない、と言ってくださる専門家もいますが、できればそうであってほしいと思っています。

2010年4月13日火曜日

この場を借りてお詫びを申し上げます。

 アンケートにご協力いただいた方に、今回の結果とお礼の報告をいたしましたが、非常識な時間にメールをすることになってしまい、本当に申し訳ありませんでした。特に携帯でメールをくれた方には、夜中に起こしてしまったりしてしまい、この場を借りてお詫びします。
 木曜の夜から返事を送っていたのですが、下の子供達を寝かせてから、ネットカフェに行って、一件ずつあらためてメールに目を通してから返事を送るという状態だったため、どうしても早い時間に送ることができませんでした。非常識かとも思いましたが、結果が出た以上、なるべく早くそれを伝えるのが誠意だと考え、申し訳ありませんと思いながら、送ってしまいました。
 本来なら直接お詫びをしなければいけないところですが、遅い時間にしかパソコンが触れないため、この場でお詫びをさせていただきます。

  最後に、私達に関心を持っていただいて、アンケートに協力してくれた皆様
  本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。 
  皆様のご多幸を心より御祈念いたしております。     
                              矢藤仁 矢藤清恵

2010年4月12日月曜日

判決直後のいろいろな思い

 今回は夫のほうです。結果は仕事中に妻からのメールで知りました。怒りや、悲しみ、色々な感情が浮かびました。
 なぜ「穹」がよくて「玻」が駄目なのか?と思うのが普通の感覚だと思うけど、裁判官にはそうした普通の感覚はないのかな?だから裁判員制度が必要なんだと、思考が暴走したり、
 ジュネーブの国際司法裁判所に直訴に行こうかなどと妄想したり、
 医療訴訟で、医師に対して「説明責任を果たしていない」と裁判官が述べることがあるけど、この判決のどこに、裁判官は説明責任を果たしているのかと怒りに震えたりしました。
 医師は、病気のプロなので、病気の素人である患者に対して説明責任があるのは当然です。同様に、法律のプロ、しかも司法の頂点にたつ最高裁判所の裁判官には、法律の素人である私たちに対する説明責任が、より強くあってしかるべきと考えるのは、おかしいんでしょうか?
 説明責任を果たさなかった医師は、場合によっては訴えられます。そのリスクを負うのがプロです。しかし裁判官はここまで説明責任を果たしていないにもかかわらず、責任を問われることはありません。相談した弁護士さんが言ってました。「裁判官も結局官僚だから、めんどくさいことはしたくないわけ、だから判決が覆るなんてことは99%おこらない」その道のプロのふりをしながら、説明責任を果たさなくても責任を問われることがない、官僚、という表現がよく理解できました。

 でもやっぱり、最愛の子供である「玻南」の存在自体を否定されたと感じたことが、一番悲しかったです。たかが9画の漢字一文字で、それも戸籍統一文字として戸籍に問題なく使えて、健康保険証、通帳などでも問題なく使えている漢字一文字で、毎日元気に生きている子供の存在を否定する、そう感じて、とても悲しかったです。


 僕のこうした思いを、妻はとってもクールに見ています。そのうち妻の考えものせますが、4月になって5人の子供の新学期が一斉に始まって、PTA行事などがなだれを打って押し寄せてくる時期なので、しばらく時間がかかると思います。妻は毎日真っ白な灰となっています。 

最高裁判所からの返事の写し

1センチほどの厚さがありましたが、その内訳は以上です。
判決文2枚、その後ろに私たちの提出した抗告理由書53枚。理由書の中で酷評した名古屋高裁の判決文ですら7枚ありました。門前払い、という言葉以外に言葉が見つかりません。以下にわずか2枚の判決文を記載します。



平成21年(ク)第1105号
平成21年(許)第42号
   決定
名古屋市東区(以下省略)
  抗告人 矢藤 仁
同所
  抗告人 矢藤 清恵
 名古屋高等裁判所平成21年(ラ)第86号市町村長の処分に対する不服申し立て却下審判に対する抗告について、同裁判所が平成21年10月27日にした決定に対し、抗告人から抗告があった。よって、当裁判所は、次のように決定する。
   主文
  本件抗告を棄却する。
  抗告費用は抗告人らの負担とする。
   理由
 1 平成21年(ク)第1105号事件について
 抗告人らの抗告理由について
 民事事件において特別抗告をすることが許されるのは、民訴法336条1項所定の場合に限られるところ、本件抗告理由は、違憲をいうが、その実質は原決定の単なる法令違反を主張するものであって、同項に規定する事由に該当しない。
 2 平成21年(許)第42号事件について
 (1)抗告人矢藤仁の抗告理由について
 「玻」の字が、社会通念上明らかに常用平易な文字であるとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は採用することができない。
 (2)抗告人矢藤仁の抗告理由について
 抗告人矢藤清恵の本件申し立ては不適法であり、これを却下すべきものとした原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は、結論に影響しない部分について不服をいうものであり、採用することができない。
 よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
  平成22年4月7日
   最高裁判所第二小法廷

    裁判長裁判官  古田佑紀
       裁判官  竹内行夫
       裁判官  須藤正彦
       裁判官  千葉勝美


             これは正本である。
             同日同庁
             裁判所書記官 古澤秀行




これが1年5ヶ月に及ぶ騒動に対して、司法が下した答えのすべてです。



 

2010年4月9日金曜日

今日の夕方、出生届、出してきましたよ

「矢藤はな」で出してきました。
とりあえずは、ひと段落です。


日常生活では、これまで通り、「矢藤玻南」の通名使用をします。

もうすでに、貯金通帳も、健康保険証も、学資保険お、乳児医療も、診察券や、検診、母子手帳、ありとあらゆるところに使用していますし。

何よりも名古屋高等裁判所からは「戸籍以外のところで通名を使用するのは自由」とお墨付きもいただいていますし。
それにしても変な話ですよね。

戸籍と違う名前を名乗るのは自由、ってこと自体、何のための戸籍なんだか??
と思いますが、ありがたく、通名使用させていただくことにしました。

あまりの見事さに、言葉も出ません。

昨日の午後、最高裁判所からの結果が届きました。
たしか、午後二時過ぎだったと思います。

封筒は、ずいぶんと分厚く、ずっしりと重いです。

私たちが投げかけた司法の矛盾に対して、最高裁判所の答えが返って来たのか、気になります。

もしも、「それ(大阪高等裁判所の定立している常用平易の枠組み基準を満たしているだけでは不十分」という返事であれば、それはすなわち、大阪高等裁判所の判断が誤りであるということになり、すでに大阪高等裁判所の定立した常用平易の枠組みによって認められている「穹」や「祷」は、それが常用平易であることの根拠を失います。
もし、「大阪高等裁判所の定立した枠組みを満たしているので、『玻』は常用平易である」というなら、私たちの市長が認められることになり、名古屋高等裁判所の判断は誤りであることになります。しかし、司法の世界において、3申請は、形式であり、1審2審に負けた裁判に勝つことは、99%ないといわれています。

とはいえ、私たちの主張には『常識的に考えて』筋が通っていますから、道理が通らない審判を出すならば、そんな裁判官は裁判官の資格はないですからね。。


主人が帰るまで、開けるのをまとうかと思いましたが、
「結果がどっちであれ、明日には玻南の出生届を出しにいくんだから。」
と思い、とっとと開けてしまいました。

分厚いです。軽く1.5センチはあろうかという厚み。
「どんだけかかれているんだ?」
と思い目を通すと、最初に目に入ってきたのは「棄却」の二文字。

「???一体、どんな理屈で????」

理由を見ると、まさに三行半。いいえ、正確にはたったの2行でした。
「「玻」は明らかに常用平易と認めることはできないという名古屋高等裁判所の判断は正当だから、あなたの理由は採用できない」

これだけ。

どんなにちゃらんぽらんで、捏造した理由をもって棄却した家庭裁判所の理由書も、

ドンだけやる気ナッシングで、「そんだけじゃ不十分」と返した高等裁判所の理由書も、

私たちの投げかけた言葉に一応返事をしていました。

が、最高裁判所は、名古屋高等裁判所の審判書以外目を通していないような返事。私たちが指摘した裁判所間の矛盾に対してのコメントはナシ。輪t氏たちのという賭けはまったく無視でたったひとこと「 名古屋高裁は正しかった」

すべての回答を放棄した潔さは、いっそ清清しいほどで、そのあまりの見事さに、言葉も出ません。

とにかく、
「ボーゼン」
この一言につきました。

近いうちに、最高裁判所からの書面を全部公開しますね。
多分、月曜日になるかも。