2010年4月14日水曜日

無知ゆえに失ってしまったもの(夫のほう)

 許可抗告の申立書を作成していた時に、ずっとひとつの不安がありました。金銭の問題ではありません。最高裁に申し立てても4200円しかかかりませんでしたから(高裁2000円、家裁800円だったと思う。弁護士には相談しかしていなし、無料相談も何回か使って、自分達で文章を仕上げたので弁護士への依頼費はかかっていない)。
 私達のこの裁判がやぶへびとなって、裁判所へ申し立てすることによって人名用漢字を増やすことができるという「国民の権利」が失われるのではないかということです。
 許可抗告ができる理由は、大阪高裁と名古屋高裁で、同様のケースにもかかわらず判断が分かれていることがおかしいということです。そして両高裁が根拠としているのは、H15の「曽」の字の使用を認めた最高裁判決です(ちなみに漢字使用で最高裁まできたのはこれが初めて、「玻」は2件目だそうです。)。この最高裁判決において、「明らかに常用平易な文字であれば名前に使用することができる」という基準が示されました。この判決を受けて「毘」「瀧」「獅」「駕」が立て続けに認められたわけですが、「明らかに」という証明は実に難しく、「明らかに」ならないものでした。ここに判断が分かれた理由があります。(以下申立書からの引用を含みます)
 私達と、「穹」を認めた大阪高裁は、なぜ戸籍法50条1項「子の名には常用平易な文字を用いなければならない」が存在するのか、その立法趣旨に立ち返りました。すると、「戸籍法50条1項が子の名には常用平易な文字を用いなければならないこととしたのは、子の名に日常使われない文字や難解な文字が用いられるときは、これによって命名された本人のみならず、他者にも社会生活上の不便や支障が生ずるおそれがあるため、これを防止する趣旨である。」(最高裁判所判例解説民事篇平成15年度(下)857頁)とありました。そうであるなら、当該文字を使うことで、命名された本人や関係者に、社会生活上、多大な不便や支障を生じていなければ、戸籍法50条1項の立法趣旨を満たすので、明らかに常用平易であるといえるのではと考えました。大阪高裁判決は、本件文字を子の名前として使用した場合、戸籍法50条立法趣旨に照らして、社会生活において、命名された本人や関係者に不便や支障が生じるか否かの観点で、常用平易性を解釈、検討しています。
 一方、名古屋高裁は、戸籍法50条立法趣旨は関係なく、常用平易性を、常用性のみに重点を置いて解釈、検討しています。(だからこそ、平易性に関連した基準をいくら満たしたとしても、「それだけでは~認められない。」と判断されます。)そして常用性=社会においてあまねく広く多用されていることと解釈しています。それは判決文中の否定理由として、「多用されているとはいえず」「多いとまで認めることができず」「広く多用されているとまでは認めがたい」「広く国民に知られている~事実は認められない」と4箇所も記載されていることから明らかです。
 このように、どの判断基準に重きを置くかが違うため、名古屋高裁判決では、大阪高裁判決の判断基準そのものである、現実に不便は生じず、困らないで使えてますよという話は、そもそも判断基準にならないとして除外しています。しかし、不便が生じないことと、常用性とどちらが優先されるべきかは、社会をよくするために法が存在することを考えれば、戸籍法50条1項の立法趣旨である、「命名された本人や関係者に、社会生活上、多大な不便や支障が生じないこと」が優先されてしかるべきと考え、以上から、私達は、名古屋高裁が、戸籍法50条1項の解釈を誤っていると考え、許可抗告したわけです。

 そして今回最高裁判決が出て、私達が負けたということは、名古屋高裁の判断基準を最高裁が支持したことになります。つまり、上記した大阪高裁の判断基準が使えなくなるということになります。
 玻南が、「大阪で生まれた女」だったら名前が認められたのに、と今までは思っていたのですが、この判決で大阪高裁も、名古屋高裁(=最高裁)の判断基準に従わざるを得なくなるので大阪でも無理になるでしょう。するとどうなるかは、申し立て書に書いたことが現実になると思います。(以下引用)

 名古屋高裁判決の、常用性のみに重きを置く解釈では、民事月報9月号38頁で述べられている通り、漢字出現頻度数調査で、ある程度の数を満たさなかった(広く多用されておらず、したがって人名用漢字部会で検討する文字に値しない)時点で、明らかに常用されていないことになり、名前に使えなくなります。しかしそれでは「玻」「穹」のように特定の分野にのみ頻出する文字は絶対に認められません。そもそも、漢字出現頻度数調査(2)で、約3300万字の活字のうち、出現頻度3012位までの漢字の出現回数の累積度数だけで、全体の99.56%を占めている現実(民事月報5月号165頁)があるので、常用性のみに重きを置く解釈では、これ以下の字が認められる事は100%不可能です。(「玻」は3992位、「穹」は4194位)
 こうした状況を解決するために、家庭裁判所の裁量権があるのではないでしょうか?もしこの裁判で私たちの主張が認められない(名古屋家裁、名古屋高裁の考え方が認められる)のなら、家庭裁判所は、戸籍法50条1項を、常用性のみに重きを置いて解釈し、判断するようになるので、上述したように、裁量権により字が増えることが不可能になることは明らかです。(現在でも、家庭裁判所では、平成15年最高裁判決をうけて、常用平易であるだけでなく、「明らかに」常用平易であることが字の認否の判断基準になっています。)それは人名漢字選定に国民が関わることを不可能にするに等しく、戸籍法50条制定後、「悠」「琉」「曽」等の字の裁判を契機に、人名漢字を増やしてきた今までの経緯に大きく逆行するものと考えます。また、今回提出した意見書でも述べられている、人名漢字の範囲の拡張や、常用漢字の大幅な増加を進めてきている、日本人の文字観並びに文字政策の変遷とも、大きく逆行するものだと考えます。

 悠仁親王の「悠」の字も、私達国民は裁判所へ申し立てることで、人名用漢字として手にしてきました。上述した理由で、私達国民はこの権利をほぼ失うこととなりました。この事態を招いたのが私達の訴えであるわけです。

 無知は自由を失わせます。私達は無知でしたので、玻南を1年以上も無戸籍の状態でほっておくという愚を犯し、人名用漢字を増やす自由も失ってしまいました。



 実際、この判決が下級審に影響を与えることはない、と言ってくださる専門家もいますが、できればそうであってほしいと思っています。

4 件のコメント:

Hal さんのコメント...

正直、どこかのブログ市長並みの自己都合解釈ばかりする方に、このような声がお二人に聞き届くなどかけらも思っておりません。が、人として忠告するべき事だと思っておりますのでコメントをお送りします。

最高裁が何をする場所なのかを勉強もせず許可上告など申し立てるからお粗末な結果になるのです。
許可上告理由の一つに「類似案件における相反した下級審判決がある」場合に統一する目的があります。
これまでは「下級審での勝訴と、行政の上訴断念」と運があれば望み通りの命名ができました。

しかし今回、とある無法者が幼児レベルのだだをこねてしまったために、今後は下級審も拘束される判例が誕生し、また行政側も判例を重視して必ず上訴することになるでしょう。
"命名の機会が認められる幸運"が得られる機会は、誰の身の上にも無くなってしまいました。

あなたたちは、同じ願いを持つ人たちにすら配慮する気もなく身勝手を貫き通し結局他人の夢まで全部ぶちこわした人間ですよ。

納得いかないと次は本名は便宜上だと宣言して脱法行為ですか…。子供さんが哀れですね。
子供に名前を詐称させる親は、子供に万引きを強制する親と等しく、「自分の名誉を守るなら、他人の尊厳を傷つけて良い」と人間性が欠けた動物のみが考えることです。

thanks さんのコメント...

 コメントありがとうございました。

 このブログがコメントを受けれるような設定になっているとは露知らず、気づくのが遅くなって申し訳ありませんでした。

 Halさんは法律についてお詳しいようなので、ぜひご意見をお聞かせください。

①今回の許可抗告は、大阪高等裁判所が定立している「常用平易」の基準枠組みに従うと「玻」は、「穹(平成20年判決)」と同等以上に常用平易であるので、「穹」同様、使用を認めるべきであるという趣旨でしたが、この内容のどの辺りが無法者でしたか?
②名古屋高等裁判所裁判官が「普段通名使用するのは問題ない」と審判書の最後に記載されていたので、合法行為だと解釈しましたが、これが違法である根拠を教えてください
③最高裁判所は、憲法違反もしくは、法解釈において過去の判例と原審の間に重大な齟齬がある場合に抗告する場所と解釈して、今回上告しましたが、誤りがありましたらご指摘ください。

 本日のブログにアップしましたように、「自分の無知が自分の自由を奪う」と考えています。まだ、私たちが知らない何かがあるのでしたら、さらに学び、改善していきたいと考えていますので、ぜひ、ご意見をお聞かせくださいますようお願い申し上げます。

 ご意見ありがとうございました。

Hal さんのコメント...

意見を求められましたので回答します。

お二人が行ってしまった最大の誤り、これは「通常の上告」ではなく「許可抗告」を申し立ててしまったことだ、と述べさせていただきます。

通常の上告であれば、最高裁としての審議経過も異なったと思われます。

矢藤様の主張では通常の上告としての申し立てになるものですが、「なんとしてでも最高裁に審議をさせるため」に確実であろう他の手法を代理人さんあたりから薦められたのでは無いですか?

今回、許可抗告ならばほぼ確実に審議に付す理由がありました。
ではどうして許可されたか。
・他の下級審判例で「認められた」「認められない」と判断が割れてしまっている。

この一点につきます。

他の下級審判例を元に「憲法違反」と上告できたわけではありません。

「名古屋高裁と大阪高裁で言ってることが違うじゃないか」という点で統一見解を求めたために上告審が行われただけです。

そして、その際原告が気にしなければいけなかったこと
・審理に入るという判断のみにどっちが正しいという意志は存在しないこと。
・今回の理由では、上告での審議はあくまでも「統一見解」を審議するためのものになる。

この点を理解してないで自己主張のみ貫き通してしまった結果、他の同じ悩みを持った親御さんの個別事情を全て踏みにじる事になったわけです。

「統一見解」を求め、それが最高裁で作られた以上、もはや下級審は全てこれに拘束されることになります。

最高裁に審議を求めるのに、「真の意味をよく考えもせず土俵に載せるためだけ」の理由で行った方、申し訳ありませんが他者への情がおありなら、気付けたものと思われます。

別に申し立ての理由が無法とはもうしません。
上告手段がお粗末だっただけです。
今回、通常上告でお済ませいただければ、後に続くものの希望は閉ざされませんでした。

残念なのはその一点のみです。

thanks さんのコメント...

Halさん、お返事ありがとうございました。お返事いただけてとてもうれしく思っております。わたしたちが気づくのが遅くなって申し訳ありません。

 本題に入ります。

①「矢藤様の主張では通常の上告としての申し立てになるものですが」について
 
 この裁判にかんして、最高裁判所に申し立てるには、「許可広告」「特別抗告」の二つしか方法がありません。これは、高等裁判所でもそう説明を受けていますし、弁護士さんも、法科大学院の先生もそうおっしゃってました。法律の本にもそう載っていました。
 私たちの件に関して「通常抗告」という方法はないはずですが、通常抗告が可能であった根拠は、どの法律ですか? また、不勉強で申し訳ないのですが「通常抗告」って何でしょう? 併せてご回答いただけると幸いです。

②「許可抗告ならばほぼ確実に審議に付す理由がありました」について

 たいていの場合、最高裁まで持ち込めません。どの弁護士さんも、「持ち込めることは期待しないでね」と再三おっしゃいました。そもそも、許可を出すのは、その前に棄却をした高等裁判所の人なので、よっぽど納得してもらえないと抗告の許可ってしてもらえないものらしいですよ。
 許可された理由は大阪高裁と名古屋高裁の判決が異なったから、とおっしゃいますが、紺なのは「それはそれ、これはこれ」と処理されるのが常套で、その違いをもってして最高裁に持ち込めるというのは甘いらしいです。今回に限っていうなら、ブログでご紹介したように、判決文が、データーも含めてこぴぺ作成できるほどに類似していたにもかかわらず異なった結果でしたが、通常はそんなことありえないですからね。
 それでも、私たちはコピペなのに結果が異なるって言ったわけではなく、前例判例をちゃんと調べずにずさんに審理した名古屋高裁の審判は整合性を欠くって言う理屈で、コピペはあくまでその証明手段に過ぎません。
 そこは、誤解なさらないでくださいね。

③他の下級審判例を元に「憲法違反」と上告できたわけではありません について

 まず、最高裁への抗告理由を整理しないと。
 他の下級審との違いを論じる場合は、「許可抗告」となります。「法の下の平等に反するから、憲法違反では?」といいたい場合には、特別抗告で論じます。
 「特別抗告」を論じるときには、許可抗告以上に難しく、「他の判例と違うから憲法違反」っていうのは、まず「ケースが違うから」ぐらいで相手にされません。特別抗告って言うのは、まずは、憲法論(解釈)から論じないといけないですし、私もやってみましたが、相当難しいです。私たちの特別抗告も、厚かましながら渾身の出来であったと思いますが、それでも「まあ、あんたが論じているのは憲法違反っていうんじゃなくて、法令違反だから、うち(最高裁)の管轄じゃないよ」って逃げられちゃいましたし。
 つまり、先にも述べたとおり、他と違うんだから憲法違反って考え自体、裁判所には存在しないってことだと思いますよ。

④「今回の理由では、上告での審議はあくまでも「統一見解」を審議するためのものになる」について

 ②③で述べたように、私たちは「祷」や「穹」の判決と私たちの判決の違いについて統一見解をくださいって申し立てたのではなく、もうすでに「祷」や「穹」の判決で統一の判断枠組みができているのに、それに基づかない名古屋高裁の判決は怠惰で誤りであるから、差し戻してって申し立てたんです。この違いをご理解いただけますか?

 ④「統一見解」を求め、それが最高裁で作られた について

ブログでも前文をご紹介しましたが、最高裁判所は何一つ判断をしていません。
 大阪高裁の枠組みの是非も、私たちの主張についても、何一つコメントしていません。
 感想としてはスルッとかわされて終わったって感じです。

⑤今回、通常上告でお済ませいただければ、後に続くものの希望は閉ざされませんでした
 について

 ①~④でご説明差し上げたとおり、まず通常抗告という手段はこの場合存在しないので選択できませんでした。上告手段に間違いも他の選択肢もなかったことをご理解いたあけましたか?
 また後に続くものの希望についても、最高裁がなんら判断もコメントもしなかったことからも、これまで通り名前について物申し立ては狭き門であることに変わりはないということです。これまでとなんら変わりないです。
 もし変化を期待できたとしたら、それは私たちが申し立てたとおり、「すでに大阪高裁が常用平易の判断枠組みを定立していた」という主張が認められた場合だけです。そうなったのだったら、誰もが納得できる法に適った判断基準の明示につながったことでしょう。
 結論から言えば、私たちの力及ばず、後進の方々に朗報を残せなかったが、希望が立たれたわけではないということです。

 ご理解いただけましたでしょうか?また、コメントをお待ちしております。